平尾御坊 願證寺

 HOME 淨苑 歴史 歴代 行事 宝什物 建造物 リンク News Flsh
kamon01.jpg

無量徳院眞像

無量徳院眞影.jpg

 彰如上人  明治8年(1875)~昭和18年(1943 )

 東本願寺23世門跡 現如上人の第2子にて童名を光養君、諱を大谷光演、謚を無量徳院

 殿、別号を愚峰・春坡・獅子窟主人、法名を彰如、俳号を句佛という。明治31年東遊

 され、浅草別院に留まり南条文雄・村上専精・清沢満之に従って宗乗を究められた。

 明治41年、法燈を継ぎ、東本願寺第23代法主(門跡)に就任。法主就任時は、両堂再

 建の負債が500万金。上人曰く「是レ天 吾ヲ鍛フルトコロナリ」と言われ、自らを奮

 い立たせられ、さらに大師堂門・本堂門・勅使門を造営、次いで玄関・事務所・白書

 院・黒書院に及ぶ造営を成し遂げられた。全国各地を巡錫され、門徒を督励し明治44

 年4月宗祖親鸞聖人650回御遠忌法要を厳修された。大正8年4月長女政子姫逝去、この

 時上人戚然とされ言われた言葉に「女ノ死 吾ヲシテ益々人生ノ無常ヲ悟ラシムと。

 また正岡子規を尊敬・私淑し、俳号「句佛」を名乗り、明治の俳句雑誌「平凡」へ、

 夏目漱石、幸田露伴らと共に特別会員として、句を寄せています。画を幸野楳嶺、竹内

 栖鳳に学ぶ (横山大観と共に、画壇の双璧とも言われ、近代日本画壇の発展に貢献した

 戦前の京都画壇を代表する大家、文化勲章受賞者の竹内栖鳳も、俳句に縁のある画家

 として知られています )。 京都府画学校( 現・京都市立芸術大学 )、京都美術協会の設

 立者としても著名な幸野楳嶺は円山・四条派へ学び、京都の美術工芸界全般へわたり

 近代化を推進、竹内栖鳳ら次代をになう画家を育てたことでも著名であり、上人は多

 芸、詩歌、書画、声明、謡曲、囲棋、茗儀など風流人としても知られた。

 昭和18年2月6日御遷化 67才

 あまり知られていませんが、真宗本廟の大師堂の蓮水画は幸野楳嶺筆、大寝殿上段の

 間襖絵は竹内栖鳳筆によるもので、彰如上人の交友によるものと伝えられています。

 長女政子姫の葬送に大谷庭後の生垣にすがられて詠まれた俳句

   「何處までも 往きたき柩 霞むまで」    句佛

                 裏書    無量徳院眞像

                      大谷本願寺釋闡如  御印
                                    昭和19年2月6日

                                    美濃國

                          願證寺常住物也 

                                    仕様  絹本  着色 本金欄表装  幅81㎝×高207㎝

 

戻る 次へ