願證寺の歴史 |
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・願證寺創建 ・長島一向一揆 ・真徳寺創建と願證寺落城断絶 ・濃洲平尾真徳寺 ・真徳寺改号願證寺と近世
平尾御坊願證寺は、永正年間(1504~1521)に本願寺8世蓮如上人の六男蓮淳法印が勢州長島(現在の三重県 桑名郡長島町)に開基したのが始まりです。 天文4年(1535)4月蓮淳法印は石山本願寺に移り、外孫にあたる證 如上人の後見役、補佐職として終生本願寺に留まり、石山本願寺初期の最大の実力者となったと言われています。 永禄3年(1560)11月21日正親町天皇より院家を勅許され、寺格・格式・上納高等益々興隆を窮めたとありま す。 元亀元年(1570)織田信長から石山本願寺の明け渡しを申し渡された顯如上人は、法燈を護るため、全国の門徒に仏敵 信長と戦えと下知を飛ばされました。 その頃、本願寺より総大将として、下間三位頼旦、下間頼盛が願證寺へ下がり 織田信長との戦に備えたのです。 同年11月21日願證寺は長島輪中に於ける一向一揆の門徒勢が、尾張小木江城を 守っていた織田信興を攻め、木江城は落城、城主織田信興を自害に追い込み、願證寺側が勝利となった戦でした。 元亀2年(1571)5月12日織田信長は弟信興の弔い合戦と称し、長島願證寺に5万5千の兵を出し、信長自身 も津島まで出陣しましたが、殿軍をつとめていた柴田勝家は右手を負傷し、さらに勝家にかわって防戦した大垣城主 氏家ト全が戦死するという信長軍にとっては敗北の戦となりました。 天正元年(1573)4月12日武田信玄が上 洛の陣中にて俄に没したので、反信長勢力は大きく影をおとしはじめます。織田信長はこの好機をのがさず年来の怨敵 長島願證寺を討つため、同年9月24日信長は岐阜を発し、大柿に入り、同26日桑名に着陣、10月8日東別所に陣 をかまえましたが、長島願證寺は風雨に乗じて多芸山を奇襲し、信長軍は再び惨敗し、10月26日岐阜に逃げ帰った ということです。 天文年中(1532~1555)西美濃惣門徒の嘆願によって、證如上人は蓮如上人の外孫にあたる願證寺2世實慧 法眼次男の證榮僧都を、濃州平尾眞德寺へ連枝住職として仰せつけられ開基せられました。 天正2年(1574) 4月7日織田信長は再び長島願證寺を攻める為、岐阜を発し、同年7月13日信長信忠親子は津島に着陣、信長は 九鬼、滝川の水軍によって願證寺を包囲、門徒勢は、篠橋砦、大鳥居砦 中之江城砦 長島砦 符丁田砦 森島砦にた てこもり、「欣求浄土 厭離穢土」を旗印に、「死ナバ極楽浄土」を合言葉に抵抗、同年8月2日大鳥居砦に籠城中の 門徒勢が撃って出たが、男女千余人が切り捨てられ全滅、8月14日篠橋砦籠城中の門徒勢が長島城においこまれ、 3ヶ月の籠城の末、食糧もつき2千余人が餓死者病死者、3千余人が餓死寸前という中で長島城は開城、最後まで抵抗 した中之江城の願證寺は、幾重にも幾重にも柵をはられ、四方から火を放たれ老若男女2万余人の門徒勢が焼き殺され ました。 ついに長島願證寺七堂伽藍は悉く焼亡し、門徒勢もさることながら女性、子供や赤児までも容赦なくが焼き 討ちにあわせ完膚無きまで、願證寺の息をとどめたのでした。世に言う「根切り」です。終に願證寺は落城断絶。時に 天正2年9月29日のことでありました。 しかし、そうした中で九死に一生を2、3人の坊官女官と一緒に、絹布団 と蓑にくるまれて、3歳の幼な子がかすかな声をあげながら伊尾川沿いに舟が出て行きました。三日経ったその日もあ ちらこちらの砦は燃えており、どこまで行っても背後には願證寺や、砦の黒煙が燃え上がっていたと言うことです。 この幼な子が、後の濃州平尾眞德寺3世榮壽僧都であります。 長島願證寺から少数の坊官女官の手によって3歳の時護り助けられた、濃州平尾眞德寺3世榮壽僧都が30才前後こ ろの、慶長年中(1596~1615)に石川主殿頭忠總公より大垣中町を寺地として上納され、そこに眞德寺掛所 (現在真宗大谷派大垣別院開闡寺)を建立開基し、益々佛法興隆につとめられました。 慶長7年(1602)徳川家 康公は、本願寺12世教如上人に京都東六条の寺地四町四方を寄進し、ここに東西両本願寺の別立をみることになるの です。 東西分派の流れのなか慶長11年(1606)榮壽僧都は断然教如上人に帰依し、東本願寺に帰参したのです。 慶長19年(1614)宣如上人は、平尾眞徳寺・草道島西圓寺・小野專勝寺・大垣等覺坊・横井永徳寺の五ヶ寺を 西美濃御末寺触頭に任命されこの五ヶ寺の触頭において、本山の命を末寺に伝達するとともに末寺よりの願い事の手次 をするよう仰せつかりました。 寛永元年(1624)3月宣勝僧都のとき、大垣城主岡部内膳正殿より眞德寺掛所 を大垣中町より、伝馬の地に移転するよう申し入れがあり、三町歩と替地し、一層の諸殿充実をはかりました。 元禄7年(1694)10月4日常榮權少僧都の時、一如上人の御沙汰によって、西美濃の触頭 平尾眞徳寺 草道 島西圓寺 小野專勝寺 大垣等覺坊 横井永徳寺の五ヶ寺であったのを平尾眞徳寺一ヶ寺と改められました。 このた め西圓寺 專勝寺 等覺坊 永徳寺の四ヶ寺はこれまでどうり、西美濃五ヶ寺連名の触頭の職を永代にわたり嘆願した が、ついに一如上人のお許しはありませんでした。 この時より西美濃408余ヶ村、末寺380ヶ寺、26の講を有 し、眞德寺の地位は高まっていきました。 寛保3年(1743)眞如上人より 「平尾眞德寺儀従本山自舊御御坊申被 申付格式被取立併住職以下諸式是迄之舊地之通」という御沙汰がありこの時に御坊の尊称として平尾御坊の尊称と寺紋 として、牡丹の落牡丹紋と、勅許院家の証の高塀定規筋(五本の白線)を下付されました。 延享三年(1746) 12月、従如上人より、「眞德寺掛所開闡寺御坊格被申付寺跡被取立」の御沙汰によって以来、平尾御坊眞德寺掛所大 垣御坊と称し、本寺、掛所 共々参詣の人絶える事がなかったということです。美濃の御同行より平尾御坊さん、 お平尾さんと呼ばれ親しまれています。 宝暦7年(1757)1月22日従如上人の思召しによって、美濃平尾御坊 眞徳寺御再建釿始めとなり、宝暦10年(1760)には上棟式が執行、宝暦年間(1751~1764)約8年の歳 月をついやして現本堂、鐘楼、山門が落成、并に旧本堂を広間に改修、御殿 客殿 太鼓堂 経堂 茶所 高塀 東 司 庫院 御蔵 高廊下 水茶屋 土塀 対面所 土蔵等真宗寺院様式としての七堂伽藍を完成したとあります。 明和 年中(1764~1772)に蓮如上人御廟造営の許しを賜り、京都東山大谷祖廟と同じ様式で造営されました。 安永2年(1773)2月乗如上人の御沙汰により、眞徳寺々跡五箇寺にお取り立てになり、さらに同年5月3日乗 如上人は、蓮如上人御子蓮淳御住職の願證寺の由緒を以て「大谷本願寺ニ候ヒテハ五箇寺院家之事親戚寺院ノ一に置き 候常ニ本願寺ニ出仕候ヒテ御門跡台下ノ代理勤行相務被候旦大谷本願寺ニ御法嗣無之時ハ五箇寺院下之以嫡男御法嗣就 候間故ニ衣体階級之御事一々御門跡台下之御沙汰寺席蒙相候也」の御沙汰によって、眞徳寺改め願證寺と改號し、本願 寺執頭五箇寺院家衆として、播州姫路本徳寺 大和箸尾教行寺江州加茂慈敬寺 河州出口光善寺 濃州平尾願證寺 勢 州射和本宗寺 泉州堺眞宗寺 摂州平野慧光寺をお取り立てになりました。一方掛所大垣御坊開闡寺の老朽化が顕著に なり、達榮法印のとき、弘化2年(1845)上棟式を執行され掛所大垣御坊開闡寺諸殿の一層の充実を図りました。 が、明治24年(1891)10月28日の朝、不気味な地鳴りと共に地面が大きく揺れ始め大垣以東以南悉く倒壊し 掛所大垣御坊開闡寺も造営より僅か四十有余年にして倒壊、その後本山より別院の建立申し出により境内寺地を寄付 し、その後再建されて大垣別院開闡寺になったのです。明治、大正、昭和と時代が移り、その中でも報恩講ともなると 近隣の小学校は午後から休校になり老若男女がこぞって参詣をされ西濃の一大行事でした。しかし、戦後間もない頃、 京都では結社なるものが水面下で産声をあげ、それが直道会という会派に成長、それを憂い昭和45年闡如上人は開申 をだされました。会派は後に改革派と称され、近代教学のもと法主制の廃し、家の宗教から個の宗教へをスローガン に、大谷派内部では親大谷家の保守派と改革派とが激しく対立。闡如上人は昭和53年に本山本願寺は真宗大谷派から 離脱独立をすると宣言し親書を発せられ、この時平尾御坊願證寺も前住職慧證院殿、前々住職欣正院殿を始めご門徒と 共に闡如上人に随従すべく、昭和54年真宗大谷派より独立をはたしたのである。新門跡であった興如上人が住職であ った東京本願寺も闡如上人に随従すべく昭和56年6月に離脱独立を成し遂げられるも、昭和62年に真宗大谷派は宗 本一体と称し本願寺を解散し、本願寺の財産を真宗大谷派に吸収合併するに至り、興如上人は昭和63年2月29日本 願寺4世善如上人六百回御遠忌法要御満座にあたり、如来聖人御冥意によって浄土真宗東本願寺派本山東本願寺を結 成、同時に東本願寺25世を名乗られ真の法統はこの東京の東本願寺にあると力強く宣言、このときより浄土真宗東本 願寺派本山東本願寺を本山と崇敬し現在に至っています |